古来インドでは、この宇宙は創造(ブラフマー神)・維持(ヴィシュヌ神)・破壊(シヴァ神)を無限に繰り返していると考えられている。その背後にあり生命を生み出す英知ある創造力をBRAHMAN(ブラフマン/梵/神)と呼んでいる。ブラフマンが人間に宿る時、これをATMAN(アートマン/真我)という。肉体人間は諸々の幻影や煩悩に煩わされ、輪廻転生の生死を繰り返すが、真我は永遠不変の魂である。
ブラフマ・ヴィドヤーとは神の智恵、又は神の探求という意味である。古代聖典ウパニシャッドにおいて、リシ(聖仙)はブラフマ・ヴィドヤーについて次のように語っている。
修行者よ、こういう学問を修めて来たかね?
つまり、それさえ学べば、
未だ聞かないことも、聞いたことになり、
未だ考えないことも、考えたことになり、
未だ知らぬことも、知ったことになる、といった学問をだね。
インドのサドゥー(世捨人)たちは、何も持たずに一生涯、神・ブラフマンとの合一を求めて修行し、聖地を巡り神戯(リーラ)の旅を続ける。全身、ブラフマ・ヴィドヤーそのものである。「神」を、古代インドでは「ブラフマン」、日本神道では「天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」、キリスト教では「神(ゴッド)」、密教では大日如来(ヴィルシャナ)、中国道教では「TAO(タオ)」と称しているようだ。地球上の宗教は元々すべて共通した源泉から派生していると思われる。仏陀は、ブラフマンの勧めによって教えを説くようになったと伝えられている。
先日、ホームページにブラフマ・ヴィドヤー「聖なる霊感の書たち」を掲載した。長らく愛読している聖典と今なお探求している分野であるが、聖なる言葉が派生する本質の源泉をヴィマラプラヴァー(光の流れ)として感じることが大切である。多分、真理を求める求道者には関心を持たれる事項が多くあるのではないかと思う。
関連して、休耕地の開拓を行っている。人と話したり煩わしい?仕事をするよりも、土をいじったり、自然や植物に親しんでいる方が自分にはいいらしい。せめて家族分くらい自給自足できる自然栽培をと思っている。「野愛の里」に写真を一部載せているが、荒れていた畑の草を刈り、土を耕して、一部ウネを立てた。これからマルチをし、いろんな作物を植えてみる予定である。 2019.3.30
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